東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の会長、森喜朗氏の問題発言は、結局「アンコン」だろうね。

「アンコン」というのは「アンコンシャス・バイアス」のこと、つまり「無意識での偏見」。

これって誰にでもある偏見だから、うかつに「言葉」にすれば、今の時代大問題になる。

ましてや、元総理大臣まで経験して、唯一「差別」のない「オリンピック」のトップの発言だから、世界中から批判が殺到するのも当然だよね。

「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」
「女性っていうのは競争意識が強い」
「女性の理事を増やしていく場合は、発言時間をある程度、規制をしないとなかなか終わらないので困るといっておられた。だれが言ったとは言わないが」
「私どもの組織委員会にも女性は何人いたっけ? 7人くらいか。7人くらいおりますが、みんなわきまえておられて。(中略)我々は非常に役立っております」

朝日新聞

 

「男のくせに」「女のくせに」、大阪人はこんなだ、中国人はあんなだ、血液型の「B型」はどうのこうの・・・

日常に潜む「思い込み偏見」は根深い。

自分で思っている場合はいいとしても、「発言」して相手を不快にさせたらそれこそ「差別」だ。

 

森喜朗氏が指摘している「会議」のありかたについては、ひょっとしたら自分にも思い当たる節があります。

彼は、「会議が長すぎる」と言いたい訳ですよね?

私は長年、高校の教師をしていました。

行事の前の「定例職員会議」や突発的に事が起こった場合の「緊急職員会議」など、教師には結構「会議」がつきものです。

「会議」の進行係、主に「教務」がやっていました。

「教務」と「校長」はツーカーだったから、事前に話し合って、「会議」の落とし所を決め、それに対する「根回し」をして「会議」に臨んでいました。

つまり、「始めに結論ありき」の形式的な「会議」だった訳です。

そんな「見え見え」の会議だったので、逆に言うだけ言っとこうという教師が後から、後から「発言」してやたらと「会議」が長くなることがありました。

私は最初、そのような「会議」のあり方に疑問を抱いていたのですが、後になって、これが「会議」の本質なのかもしれないと思うようになりました。

「教務=校長」は前回の会議での職員の発言を活かしながら、次回の「会議」の落とし所を模索し始めたからです。

それでも、一言、二言、発言する教師はいるものです。

その繰り返しで、「会議」の精度が上がるのが本来の「会議」のあり方だと思うようになりました。

 

森喜朗氏はそこの部分を理解していたのでしょうか?

「会議」が長いことの原因だけに不満を持っていたのではないでしょうか。

 

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