私は、30代前半「合気道」を習っていました。
ご存知のように「合気道」はこちらから仕掛けることはありません。
相手の出方に応じて、「円」を描くように相手を導いて、倒します。
見ていると、誰にでもできる「舞踊」のようにも見えますが、相手の動きを制しながら相手の動きをこちらの動きに引き寄せる技術はなかなか習得できません。
ここで話題に取り上げるのは合気道の「技」のことではなく、いつも「練習」のあとに「師範」が話してくれる「教え」についてです。
毎回、違った「教え」を話してくれるのですが、印象に残っている「教え」が2つあります。
「来たらば迎え、去らば送る。座すれば和す。五、五は十なり。二、八は十なり。一、九も十なり。すなわち、これをもってすべてを和すべし」
「鬼一法眼(きいちほうげん)」という剣術師範の言葉だそうです。
「孟子」の「去る者は追わず、来る者は拒まず」と通ずるところがありますが、こちらはさらに、「座すれば和す」と続きます。
自分から離れようとする者を決して引き止めることはしない。
自分を慕ってくる者は、どんな人間でも拒まない。
その人の心のままに任せよう
「孟子」の言葉は有名なので何となく覚えていたのですが、さらに「続き」があることを知って、とても興味が湧きました。
対して座れば、和やかに話すこの「言葉」は、合気道の道が説かれているような気がします。
さらに、
五、五は十なり。二、八は十なり。一、九も十なり
「五五、十、二八、十、一九、十」というのは「調和」です。
相手が「五」の力であれば、自分も「五」、
相手が「二」の力であれば、自分は「八」、
相手が「九」の力であれば、自分は「一」
力の配分が「調和」してこそ初めて「気が合う」教えです。
相手の力が「十」だからといって、自分も「十」の力で応じても、「技」はかかりません。
また、相手が「五」の力のときに、「十」の力を出しても、きれいな「技」はかかりません。
相手を無視して、自分の力ばかり「鼓舞」してもだめだということです。
相手に合わせて、こちらも動くのです。
もう1つは、「木鶏」の教えです。
本当に「強い」状態というのは、「木でできた鶏のように動じない」ことだと教わりました。
昔、中国に紀悄子(きせいし)という「闘鶏」の調教師がいました。
「強い闘鶏に育てて欲しい」と言って、王は紀悄子に鶏を預けました。
10日ほどが過ぎて、王が尋ねると、紀悄子は、「まだ空威張りして闘争心があるからいけません」 と答えます。
さらに10日ほど経過して、もう一度王が尋ねると、「まだだめです。他の闘鶏を見ると、いきり立ちます」と答えます。
さらに10日後に、「目が怒りに燃えて、己の強さを相手に誇示しているように見えます。」 と答えます。
さらに10日が過ぎて、王が尋ねると、「もう大丈夫です。。他の闘鶏を見ても、全く動じません。まるで木鶏のようです。他にかなう闘鶏はいないでしょう。」
と、答えたそうです。これが「木鶏」のお話です。
自分に自信がないと、人は「空威張り」したり、自分を高めようとして、相手を「見下し」たりします。
本当の「強さ」というのは、誰に対しても、相手に合わせていく、気取らない態度のことをいうのだ、と教わりました。