日本語には3つのそれぞれ「趣が違った」言語で成り立っているように思います。

カタカナ」「ひらがな」そして、「漢語を含む古語

昔は「古語」だけだったものが、時代とともに、現代の言葉遣いに変わってきた。

「カタカナ」「ひらがな」「古語」が程よいバランスで存在していたかと思うと、最近はやたらと「カタカナ」語が増えて、

今日の新聞だけでも、「カタカナ」表記の単語がたくさん使われていました。

「ニュース」のように「カタカナ語」で定着しているものは、わざわざ「日本語」に戻す必要は感じません。

タイトル、ローン、パターン、データ、シリーズ、カプセル、スタイル、イルミネーション、ドキュメント、エース、ファンサービス等は、
「カタカナ語」を使ったほうが違和感がないですよね。

ワールド、フィールド、イベント、シニア、リフォーム、トラブル、カラフル等はいかがでしょうか。

さらに「ビジネス用語」の、>アジェンダ(議題)、ペンディング(保留・先送り)、アウトプット(出力・成果、プライオリティ(優先順位)、コンテンツ(内容)等は、絶対に「用語の説明」が必要ですよね。

最近は、このような「カタカナ語」が多すぎます。

しかし、長い目で見ると、このような「カタカナ語」も日本語として定着していくのでしょうね。

 

一方、日本語には「古語」というなかなか捨て難い「言葉」も存在します。

「俳句」や「短歌」、「川柳」、その他「賛美歌」を日本語に訳したもの、などはこれから先も絶対になくならないでしょう。

特に、「俳句」や「賛美歌」には「古語」の力が必要なのです。
 

枯枝に 烏のとまりけり 秋の暮(芭蕉)

「枯れた枝にカラスが止まっているよ秋の暮れに」と、口語で表現しても、「ああ、そうなの?」としか言えませんが、古語で書くと、不思議に、「季節の移ろい」や「その中での人の営み」を感じるのは私だけでしょうか。

「きよしこの夜」という詩も、

 きよしこの夜 星はひかり
 すくいのみ子は まぶねの中に
 ねむりたもう いとやすく

これでは「言葉が分かりにくい」ということで、

 きよしこの夜 星はひかり
 すくいのみ子は み母の胸に
 ねむりたもう 夢やすく

と、書き換えられたものもあります。

 

私が言いたいことは、「古語」が少し残っているからこそ、伝わる表現もあるということです。

「ひらがな」に象徴されるような「優しい日本語」が根幹にあって、「カタカナ」と「古語」で味付けした「言葉」が、私は大好きです。

「カタカナ」「ひらがな」「古語」、この3つの要素が混在する「日本語」は、これから先どこへ向かうのか分かりませんが、いつまでも「大切に」残していきたいものです。

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