「晒す」という漢字は「日」と「西」がくっついています。
一方、「泊まる」という漢字は「水(さんずい)」に「白」と書きます。
どうみても、「逆」だとは思いませんか?
普通、「日」が「西」に沈んだら、「晒(とまる)」でしょう。
「水」に「泊(さらす)」と「白く」なりますよね。
「納豆」と「豆腐」も何となく「違和感」があります。
なぜ、豆が腐ったら「豆腐」になるのでしょうか。普通、「なっとう」になるでしょう?
昔々、中国から日本に「漢字」が入ってきたとき、日本の「お役人」が間違えたという「説」がありますが、私も「きっとそうだろうな。」と思っています。
「言葉」というのは、長い年月を経て、少しずつ変わっていくものだから、その「意味」も昔と今ではすっかり変わってしまったものがたくさんあります。
「親」という漢字は「「木」の上に「立」って、子どもを「見」ているから「親」だと思っていましたが、元々の意味は別にあって、「ナイフで身を切るように接して見る」ことらしいです。
「犬も歩けば棒にあたる」というのも、歩いていると、「いいこともある」という意味なのか、「災難に会う」という意味なのか、どっちでしょう。
「転石苔むさず」、「転がる石には苔が生えない」は「いい意味」なのか「悪い意味」なのか、わかりませんよね。
「言葉」というものは「時代」とともに「新しく生まれては、消えていく」存在です。
昔、「日射病」と言っていたものが、現代では「熱中症」に変わってしまいました。
「地震・雷・火事・おやじ」のおやじは親父ではなく、「おおやじ(台風)」のことだったそうです。
「親父」が本当に「恐い」存在だった時代もあったのでしょうね。
「いちご」の「あまおう」という言葉は「甘王」と書いて、「甘さの王様」だと思っていたら、「あかい」「まるい」「おおきい」「うまい」の頭文字だそうですね。
新しく生まれた言葉だったのです。
日本語には、今風の「カタカナ」横文字やら、奥深い意味を持つ「漢字」やら、やわらかい「ひらがな」があって、本当に「世界に誇る」言語であるように思います。
私は「佐賀弁」の「ぬ」が好きです。
「寝る」ことを「ぬ」と言います。
これは「最高」の方言だと思っていたら、
鹿児島の方言に「かきくけこ」という言い方があると聞きました。「柿を食べに来なさい」という意味だそうです。
ビックリ!